戦火のアンコールワットを目指した若き日本人 戦場カメラマンの軌跡

映画

東南アジアは経済発展が目まぐるしい。
東南アジアの発展

街中を歩けばみな買い物で賑わっており、一般市民の生活にも余裕が出て来てみなマイカーや若い世代で家を買う事も増えてきている。
みな人生を謳歌している。楽しんでいる。
これから東南アジアの人々の生活はもっと良くなるに違いない。
私もタイ、マレーシア、ベトナム、カンボジアの国を旅してきて、みなまだ貧しい部分があるけれど
これから絶対に良くなっていくという確信からか東南アジアの国の人々はみな活き活きしているように見えた。

東南アジアは戦争が絶えない地域だった

しかし、この東南アジアはほんの20年前まで戦争が絶えない非常に危ない地域だった。
特に東南アジアのインドシナ半島のベトナムを舞台とした1960年から1975年まで続いたベトナム戦争、
1993年に民主主義が確立するまで続いたカンボジア内戦とポルポト派の大虐殺。

東南アジアのインドシナ半島。
カンボジアとベトナム

ベトナム戦争とカンボジア内戦
ベトナム戦争

今、多くの日本人がこれからの東南アジアの経済発展に期待し、東南アジアで生活、仕事をしている。
戦争が無い、平和な状態でなければ絶対に出来ない事だ。
しかし、約40年前の1970年に日本を飛び出し、東南アジアのアンコールワット遺跡に魅せられた戦場カメラマンの日本人がいた。

それが、『一之瀬泰造』

一之瀬泰造とは

一之瀬泰造

一ノ瀬 泰造(いちのせ たいぞう、1947年(昭和22年)11月1日 – 1973年(昭和48年)11月29日)は、日本の報道写真家。
一ノ瀬 泰造はカンボジア入国以後、共産主義勢力 クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への単独での一番乗りを目指しており、1973年11月、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」と友人宛に手紙を残し、単身アンコールワットへ潜入し、消息を絶った。

一之瀬泰造が目指したアンコールワット

アンコールワット

アンコールワットは世界でも有名な遺跡だ。
知らない人がいないという位、世界遺産に登録されている遺跡の中でも有名な登録遺産になると思う。
私自身も数年前にアンコールワットを見に行った。
行く前まではワクワクしたし、実際に見た時も感動した。死ぬまでに見ておきたい遺跡だと思う。
アンコールワットがあるシェムリアップという街時代は既に観光化されており、
コンビニから西洋系のバーやクラブ何でも揃っている観光名所となっていた。
私が旅した時も日本のツアー客を多く見た。
カンボジアはまだ危ないというイメージがあるが、危険なイメージとは裏腹に子供からお年寄りまで数多くの日本人がツアーに参加していた。既に戦争状態とは無縁で、完全な観光地として治安も保たれていた。
しかし、今でこそ気軽に簡単に行ける場所になったが、40年前は共産主義が蔓延っていて外国人がアンコールワットを訪れる事は出来なかったのだ。

地雷を踏んだらサヨウナラ

戦場カメラマン
彼の生涯は浅野忠信主演で映画になった。
私自身一之瀬泰造は知らなかった。
浅野忠信の映画を見て、一之瀬泰造の事を知ったのだ。
一之瀬泰造はどうしても自分の目でアンコールワットを見たく、危険を顧みずカンボジアに入国をする。
そして、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」という言葉を残して消息を絶った。
この言葉が映画の題名の由来となっている。

いつの時代に生きている人にも良いものは変わらなく魅力的に映ると思う。
40年前でも今でもアンコールワットは人を惹きつける魅力のある遺産だ。

26歳の日本人青年がアンコールワットを自分の目で見て、カメラに収めたいという想いに共感せざるを得ない。
今の時代は簡単に訪れる事が出来る。
この映画を見て、一之瀬泰造が生きた戦火の東南アジア カンボジアを見ると
自分は本当に平和な今の時代に生きていて幸せであると感じなければならないと感じた。

戦場カメラマン