[海外生活最悪の事件]数奇な交通事故トラブルに巻き込まれた日本人
ブログの更新が1か月近く出来なかった。非常に長い期間何もする気が起きなかった。
これはなにより、先日非常にショッキングな出来事があったからだった。
タイに移住し始めてからの海外生活最悪のトラブルに巻き込まれてしまったといえる。
体に違和感が残り、痛く、心も深く落ち込んでいたため、心身ともにブログを書く気が起きなかった。
今もまだ、手に少し違和感がある。
簡単に言うと、先日交通事故を起こした。
いまはなんとか冷静さを取り戻している。現実を受け止めるように努めている。
全ては僕が撒いた種であり、僕自身が起こした結果なので僕が悪い。
今回、このトラブルについて書くか書かないか迷った。
非常に情けなくもあり、恥ずかしい最悪の出来事だからだ。果たしてこんなことを書いていいのか自問自答した。
しかし、僕は書くことにした。
なぜなら、これからタイで旅行する人やタイで仕事や生活している人にも、もしかしたら同じような出来事が起こってしまうかもしれない。
そう思うと、書かずにはいられない。そして、今回この内容を記載するに至った。
少しでも多くのタイを訪れる日本人、タイで生活する日本人に注意して貰いたい。
今回は注意喚起の意味も込めて僕が経験してしまったトラブルを記載していきたい。
タイ生活史上最悪の数奇な交通事故トラブル
今回のトラブルはある出来事があり、その翌日にトラブルが起こった。
しかし、今思うと数奇な運命だった。
なぜこんなことになってしまったのか、いまでもよくわからない。
少し話が長くなるが、問題の日が起こった前日の話から記載していきたい。
僕の営業職としての仕事
まず、簡単に僕の仕事の話を少しさせてもらいたい。
僕はいまタイの企業で営業職を担当する仕事に就いている。
簡単に言うと、定期的にクライアント先に行って、既存契約の更新、トラブルなどの聞き込み、新規システムの提案などが主な業務だ。
新規顧客への売り込みなどは基本的にすくなく、既存顧客の客先へと足を運ぶことが多い。
この業務は週2,3日行う。外回りが多い仕事なのだ。
この外回りだが、会社からドライバーを付けてもらうか、自分で運転をして客先へと向かう。
顧客先はバンコク、アユタヤ、アマタナコンの工場が主な外回り先となっていてこの地域に足を運ぶことが多い。
ドライバーを付けてもらって向かうこともあれば、自分もしくは一緒に客先へと向かうエンジニアと二人で運転して向かうこともある。
車を使ってお客さんのところへ行くというのが僕の仕事の重要な一つなのである。
お坊さんの助けをした
先日、エンジニアのタイ人と営業の僕の二人でアユタヤの工場に向かった。
いつものように、エンジニアのタイ人が車を運転し、助手席に僕が乗る形で顧客先へ行った。
アユタヤは古代遺跡があることで日本人にも有名な土地だが、ここは日系企業主に製造業の多くが工場を持っていることでも有名な土地柄だ。
アユタヤはバンコクから車で1時間半ほどで距離的には近い。
車で日帰りで行くことも可能なところであり、月に何回かはこのアユタヤへ出張しに行く。
このアユタヤ工場へ向かった日は業務自体は特に何もなく、契約の話、お客さんの現状のヒアリングをして17時くらいに仕事は終わった。
ここから泊りはせず、また車でバンコクへと帰るのだ。
一緒に客先へと向かった彼が運転する形で僕たち二人はバンコクへと車で帰路につくことにした。
エンジニアの彼は年齢は僕より年上だが、面白くて、気が合う。
二人で車の中でいつものようにたわいのない話をしていた。
基本的に女の話とかくだらない話しかしないし、ノッてきてくれる。
誰々が可愛いだとか、そんなしょうもない話をいつも乗車中にしている。
懲りずに何度も何度もしている。そんな感じの会社の関係を抜きにしてでも、気が合うような間柄だ。
どこの国でもたいてい男は似たようなものだと思う。
万国共通でこういった女性の話とかくだらない話は盛り上がる。
たとえお互いに共通点がなくても、こういう話で仲良くなれたりするものなのだと常々感じている。
もちろんお互いの共通の趣味があえば、なおさら良いのだが、なかなか僕の好きな趣味と一致するタイ人は少ない。というよりも、ほとんどあったことがない。
共通点がない者同士だと、必然的に異性の話などになってしまうのだ。
いつものように彼とはたわいもない話をしながら、バンコクへと向かっていた。
アユタヤの工場を離れてから、15分ほどだろうか。
たわいもない話をしている最中に、彼は唐突もなく、車を路肩に停めた。
『ちょっと待って』とだけ言い、車を路肩に寄せる形で道端に停車したのだ。
今までたわいもない話をしていたのに、その時の彼は真剣な顔をしてフロントガラスのミラーをのぞき込み、後方を確認していた。
いったいどうしたのか。車で何か踏んだのかなと思った。
ただ、助手席に座っている僕も何か踏んだような実感はなかった。なので事故ではないだろうなとは思っていた。
彼はそのまま何も話すことはなく、サイドミラーを凝視し、車が来ていないことを確認してから、車外へと出た。
そして、確認するように後方へと向かって歩いていった。
その先に何があるのか、彼の行く末を目を凝らして見ていると、その先にはオレンジ色の袈裟を着た3人のお坊さんが歩いてきていた。
エンジニアの彼はお坊さんに向かって歩いて行っていたのだということがこの時にわかった。
どうしたんだろうかと思って見ていたが、彼はお坊さんに何かを話しかけ、お坊さん3人と車の近くまで戻ってきた。
彼が車内の運転席にに戻ってきたので、いったいどうしたのか彼に聞いた。
どうやらこのお坊さん3人はサラブリというアユタヤから30分ほどの地域まで歩いいる最中で、車に乗せて近くまで乗せていきたいとのことだった。
僕は特に断る理由もなかったので、すぐさま『いいよ』とだけ言い、了承した。
エンジニアの彼はにこりと笑い、車外へと出て、近くにいるお坊さん3人に乗車するように声と合図掛けした。
そして、この三人のお坊さんがエンジニアの彼に招き入れる形で車の後部座席に乗車してきた。
僕は、お坊さん3人と軽く会釈をして、『こんにちわ』とあいさつを交わした。
彼らお坊さんの顔を近くで見ると、3人とも共通してかなり年季の入った方たちだった。
お坊さんの3人のうち、1人は大柄で、他の2人は小柄な体格で、みな、おそらく40は超えていると思う。何日間も外を歩き続けているためにできたと思われる日に焼けた肌としわが顔中に広がっていた。
サンダルに袈裟だけを纏い、何日も太陽の下を歩いているかのような疲れた表情も見て取れた。
疲れた表情をしているように見えたが、みな笑顔だった。
そして、僕はこの時にお坊さんを少しでも近くまで送っていきたいという気持ちを聞いて、純粋にエンジニアの彼はいい人だなと思った。
僕とたわいもない会話しているときもこういった道行くタイのお坊さんをしっかり見ていて、ましてや車に乗せて近くまでいってあげるなんて素晴らしいな。
僕にはこういった感情や気遣いが今までになかった。僕も見習わないといけないと感心してしまった。
ここで少し、タイの仏教の話をさせてもらう。
タイでは日本には日常的にはないタンブンという仏教的な教えの習慣がある。
これは、徳を積むということだ。
簡単に言うと、善い行いを心がけて生活をするということ。
なぜ彼らタイ人がタンブンを積むかというと善い行いをすれば自分にいつか返ってくると考えているからと以前タイ人に聞いたことがある。自分のためでもあるのだが、結果的に人助けをすることにも繋がっているので賛否両論はあるが、僕は良い習慣だと思っている。
そして、タンブンにもいろいろな種類があるのだ。
お寺にお参りをしたり、貧しい人や困っている人を助けたり、今回のように道行くお坊さんを助けたり、食事やお供え物をして助けるといった善行を行う。
たとえこういった習慣がタイでは当たり前だとしても、今までに道行くお坊さんを拾って送っていくことは初めてだったので単純に感動したというのが率直なところだ。
断る理由などもなく、彼らお坊さん3人をサラブリの目的地近くまで送っていくことにした。
それから、1時間ほど車を走らせ、お坊さんが目的地としていたサラブリの近くに着いた。
ここで少し驚いたのだが、目的地といっても着いた現場には周りには何もなかった。
畑と木と道しかなく、電灯すらない真っ暗な本当に何もないところだった。
しかし、お坊さんに話を聞くと、畑の何もない道をたどった先にお寺があって、そこで今日は寝泊りするとのことだった。
おそらく歩いたら十数時間かかる道だっただろう。
目的地に着いたときにも、タイのお坊さんは凄いなと感心した。
そして、目的地に着いたことを確認し、ついにお坊さん3人とお別れのときとなった。
タイ人エンジニアの同僚は彼らお坊さん3人が降りると合わせて車を降りた。
僕は軽くお別れの会釈だけして、そのまま助手席に座っていた。
僕の助手席近くの外でお坊さん三人とエンジニアの彼は何かを話していた。
おそらくお別れのあいさつなどをしているのだろうなと僕は思っていた。
数分話をしたのちに、エンジニアの彼は膝をついて手を合わせ始めた。
膝をついてお祈りをしている彼に対して、大柄のお坊さんが説法なのか何かお経のようなものを唱え始めた。
その姿を見て、僕はそれまで助手席で携帯をいじりながら、見ているだけだったが、僕も席を立ち外へ出て彼と一緒に膝をついて手を合わせることにした。なんとなく、そうするべきだと感じた。
30秒ほど、お坊さんのお経は続いた。
何を話してくれているのか、まったく分からなかったが、おそらく僕たち二人の安全などを話してくれているんだと思った。
それから、お坊さんのお経が終わり、僕たち二人は合わせるように膝をついていた状態から、立ち上がることになった。
エンジニアの彼は立ち上がると同時にサイフからお金をだしてお坊さんへお金を渡した。
彼が渡した額は確かではないが、おそらく100バーツそこらだったと思う。
僕もそれを見て、いてもいられず、財布から200バーツをだし、説法を唱えたお坊さんとは異なるほかの二人に100バーツづつ渡した。
お坊さん3人は会釈をして、お金を受け取った。
これでお別れだなと思った。あっという間だったが、なんとなく別れが惜しいような気もした。
こんな経験はなかなか日本では出来ない、タイならではの経験だなと思ったりもした。
僕は助手席のドアを開けて車内に戻ろうとした。
しかし、エンジニアの彼は説法を唱えた大柄のお坊さんとなにやら真剣な面持ちで何かを話し始めていた。
あれ。何だろうと思った。
車内に戻ることを一旦ストップし、話を聞いていると、どうやらこれからサラブリのお寺に泊まって、次はさらに東へと進みそれからタイの東北地方へと向かい、最終的にウドンというタイの東北でも北に位置する地域へ移動する予定だということだった。
大変だな。これからもっと北へ向かうのかと思った。おそらくサラブリからウドンターニまでは500㎞はあるだろう。
この道を永遠と歩いていくんだろうなと思った。お坊さんは凄いと改めて感心した。
しかし、僕はここで少し耳を疑った。
どうやらお坊さんはエンジニアの彼にバスを使っていきたいと言っているようだった。
しかも、バスを使って移動したい数回同じことを言っていた。
僕はこの時に、これは、要するにお金をもっとくれということだと解釈した。
彼はいくら必要なのか、お坊さんに質問した。
大柄のお坊さんは2000Bと答えた。
僕はこれを聞いた時も自分の耳を疑った。マジかよ。高いなって思ったのが率直なところだ。
エンジニアの彼はすぐさま僕の顔を見て、僕にお金がいくらあるのか聞いてきた。
少し動揺しているような感じだった。おそらく彼は2000B持っていなかったのだろう。
しかし、情けないことに僕もそのときサイフに500Bほどしか入っていなかった。
エンジニアの彼も200Bほどしかもっていないとのことだった。
なので物理的に2000B払えない状態だった。
なんで2000Bも払わないとならないんだと強く感じた。このハゲに払う必要はないんじゃないか。
そう思ったが、僕たちは財布の中身を見せて、2000Bはないことを了承してもらい、有り金を渡す形になった。
大柄のお坊さんは不服そうな顔をしていたが、何とか了承してくれた。
そして、お坊さんの彫刻が彫られたペンダントが付いたネックレスをエンジニアの彼と僕の首にかけてくれた。タイでのお守りであるプラというものだ。
どうやら彼らお坊さんたちの贈り物のようだった。
お坊さんは満面の笑みを浮かべていた。
そして、お別れとなった。
彼らお坊さん3人は何もない畑の暗闇の道を歩いて進んでいった。
腑に落ちない部分は少なからずあったが、僕はとくに何も言うことなく『ありがとう』とタイ語であいさつをして、お別れをした。
僕たちはそれから車内へと戻り、Uターンをしてきた道を少し戻り、バンコクへと帰路につくことにした。
車内ではなんでバスなんて使うんだ?ということをタイ人エンジニアの彼に聞いたが、彼も笑っていた。
暑いし、疲れて大変だからバスを使いたいということだった。
なんだそれは。と思った。
また、プレゼントにもらったネックレスについても聞いてみた。このネックレスはいつまでも付ければいいものなのかと聞いたら、3日は付けておいたほうがいいということだった。
確かにもらったものをすぐに外すわけにはいかないが、ちょっとずっと付けていたくもないような代物だった。
お金も結構払い、遠回りになったりもしたが、自分としてはなんとなくいい気分になった。
自己満足かもしれないが、なんか良いことが自分に起こればいいな。
そんな、淡い期待を寄せながら、バンコクへと二人で帰路につくことにした。
翌日、事件は起こった
このお坊さんとの出来事の翌日、タイ人のエンジニアの彼と僕の二人はアマタナコンの工場へ行った。
アマタナコンはバンコクから1時間ほど東へと車で走った場所にある工業団地地帯だ。
ここは、観光地としては有名ではないが、日本の製造業企業の多くが工場を構えている土地としてアユタヤ以上に有名な土地だ。
アユタヤ以上にここへも僕は仕事の関係上、頻繁に足を運ぶ。
この日もエンジニアの彼が運転する形で僕と二人で車で現場へ向かった。
そして、仕事も何事もなく終了し、二人で17時ころバンコクに帰ろうとした。
エンジニアの彼は工場近くの駐車場に車を取りに行って、バンコクへと帰る道へ進んだ。
アマタナコンはバンコクから直通で高速道路が通っている場所でもある。
バンコクから非常に便の良い土地柄でもあるのだ。
駐在員などはバンコクに居住を構え、毎日バンコクから出勤して通っている人も多い。
100㎞近くバンコクから距離はあるが、交通の便もいいので、毎日通勤として通えない距離ではないのだ。
僕たちはアマタナコンの高速道路に乗る前にコンビニに立ち寄って飲み物を買うことにした。
これは日課でもある。実はアマタナコンからバンコクまでの高速道路には休憩所などがない。
1時間かからないくらい走るのだが、途中で休むことやトイレ、飲み物を買うことは出来ない。
よって、高速道路に乗ったらそのままバンコクまで帰るしかないのだ。
なので、コンビニで飲み物や用を足してから高速に乗るのが日課でもあった。
いつものようにコンビニ近くの道に路駐をして、コンビニで飲み物を買い、用事を済ませた。
彼は路駐していた車を取りに行き、僕はコンビニの前で彼が横付けするのを待っていた。
そして、この時に事件は唐突に起こった。
あまりに突然の事だったが、エンジニアの彼が運転する車が、僕の目の前でバイクに乗る人を轢いたのだ。
まず、物凄い音がした。ドーンという聞いたこともないようなデカい音だった。
正確には彼がバイクを轢いた瞬間を僕は見ていない。
大きな音がして振り返ると、エンジニアの彼が運転する車が僕のいたコンビ二の道から大きく外れ、道の外に乗り出す形になっていた。
そして、バイクが無人の状態で横たわっていて、その10メートル先くらいに人が投げ出されていた。
この光景を僕は目の当たりにしたのだ。
路肩から車を出そうとした時に対抗車線から走ってきたバイクを轢いたようだった。
バイクに乗った人は10メートルほどは吹き飛ばされた。
僕は一瞬あっけにとられた。大変なことになったと思った。
そして、瞬時にバイクに乗っていた轢かれてしまった人を走って見に行った。
被害者は蹲るように倒れていた。よく、見ると彼はまだ少年のようだった。
彼の体を見てみると、五体満足の状態で手足がちぎれているという事は無かった。
両足からは血が流れていたが、たいした量でもなく、擦り傷程度であった。そして、彼に声をかけると、しっかりした意識があった。
しかし、かなり痛そうだった。顔が苦痛の表情だった。
立ち上がれそうになかったので僕は彼に手をかけて起き上がらせることにした。
そして、周りにいたタイ人もドンドン集まって来て彼を助ける事になった。
被害者に肩をかけたところで、僕は車を運転していたエンジニアの彼を見た。
彼は運転席から降りてくるところだった。
手で頭を抱えていて、とても動揺した状態だった。しかし、彼にケガはなさそうだった。
『病院に連れていく』とだけ叫び、僕は辺りを見渡した。
もうこの時点で凄い人が集まっていて、流れのタクシーもこの事故の状況を見守っているようだった。
僕はその場にいたタクシーを拾い、少年と僕の二人で病院に向かった。
タクシーの中で彼の身体の状況を確認した。
手足は動いていたので骨は折れていないようだった。
少年の彼はヘルメットを被ってはいなかったが、頭をぶつけたという事もなさそうだった。
僕はこの時になってエンジニアの彼が起こした事故の重大性を認識した。
なぜなら、よくよく見るとこの少年はかなり若かった。
おそらく小学生高学年もしくは中学生くらいだろう。こんな小さな子供を事故に遭わせてしまったのだ。
大丈夫か?と質問した。少年の彼からは、しっかりした回答があった。
僕はこれにまず安心した。おそらく彼の身体が大事にはならないだろうと直感で感じた。
身体を確認した後、彼はまず親に逢いたいといった。
病院に行く前に親に状況を報告したいとのことだった。
もし重傷ならば、そんなことは言える状況ではないが、おそらく病院に行く前に家族に会っても問題ないだろうと判断し、僕は彼の親がどこで働いているのか尋ねた。
彼の親は事故現場から近くの市場で働いているようだった。
そして、事故現場から1キロほどの場所にあるその場所へたどり着いた。
タイのローカル市場だった。そして、少年と僕はタクシーを止めて、市場の中へと入っていった。
少年の彼は直ぐに母親を見つけ、状況を説明した。
車に轢かれて今から病院に行くとだけ伝えていた。僕も今から病院に連れていく事だけを説明した。
これを聞いて、母親は非常に動揺しているようだった。大丈夫かと息子である少年にしきりに聞いていた。
少年は大丈夫だと言っていた。しかし、大丈夫かどうかは検査してみないと分からない。
とにかくまずは病院で彼の身体の状況をしっかり見て貰う必要があると思ったので、長居はせず、病院へ向かった。
おそらく1分もいなかったと思う。
少年と僕はその場をすぐに後にして病院へと向かうためにタクシーへと戻った。
そして、市場から1キロもない大型の病院につき、緊急病棟の入り口にタクシーを停めさせて、緊急の患者であることを説明し、診断を受けることになった。
僕は彼が診断室の外で待っていた。
僕は少年の検査を待っている間、気が気ではなかった。どうか体に問題が無い事だけを祈っていた。
こんな小さな子を車で轢くなんて、絶対にあってはならないことだし、なぜこんなことになったのか困惑していた。
そして、それから、少年の彼は数分後待合室に戻ってきた。検査が終了したとのことで、幸いにも身体には何も問題がなかった。
あっという間だったが、
このとき僕自身は本当に安心した。この少年の身に何も問題が無いことが不幸中の幸いであったと強く感じた。
この診断を終えた時点で交通事故を起こしてから1時間ほどが経過していた。
病院の診断が終了し、被害者の少年と僕は乗ってきたタクシーで数キロほど病院から離れた事故現場に戻った。
事故現場にはいまだ人が集まってきていた。ざっと見たところ、20人くらいはいたと思う。
あたりを見渡すと、事故を起こした車もバイクもそのままだった。
そのままというのは事故の時と変わらない状態だったということだ。
バイクのみ路肩に寄せられていて、車は道路から乗り出した場所に乗り上げられたそのままの状態だった。
先ほど市場に行った際にあった少年の母親も現場に来ていた。母親は涙を流して泣いていた。
タクシーから降りて一人でに歩く少年の姿を見て、安堵したようだったが、涙は止まることはなかった。
そりゃそうだろう。
自分の子供だったら、心配で仕方ない。不安で心配で泣いてしまうだろう。わが子であれば、自分のこと以上に心配になり、こうなるに違いないと子供がいない僕でも思った。
不幸中の幸いでこの少年には体に問題はなかった。このことをまずは母親に伝えた。
母親は分かったと言っていた。
そして、次に僕は同じ会社のエンジニアの彼の姿を見かけた。
彼はタバコを吸って放心状態になっていた。
僕は彼の元へ歩いていき、状況を確認した。
警察や保険屋はまだ来ていないし、連絡すらしていないということだった。
車もそのままだったし、彼はこの1時間ただ茫然としていただけだった。
この時点で僕はかなり憤慨していた。
なぜ、何もしていないのか?あたかも僕の帰りをただ待っていただけだったように見えた。
僕は少年には何も問題なかったと伝えた。彼は分かったとだけ僕に言った。
車の状態を見ると、ボンネットに穴が空いていた。
エンジニアの彼になぜ事故を起こしてしまったのか聞いた。事故を起こすような場所ではない見渡りの良い場所であり、何度もこの場所には着ていたからだ。
彼に事故当時の状況の話を聞いていくと、この少年が猛スピードで走ってきた。ランプも付けていなかったので、わからなかった。気づいたらぶつかっていた。
そして、彼は免許も持っていない無免許運転であり、脇見運転をしていたのは少年のほうだ。
だから彼が悪いとのことだった。
僕はこれを聞いた瞬間に自分の中での怒りが頂点に達してしまった。
彼をまず蹴ってしまった、彼の髪の毛を掴みシャッタファックアップとありえない暴言を吐いてしまった。
今思うと本来ならこんなことはしない、
海外では理不尽な仕打ちを受ける事も多い。まして日本人は舐められやすい。
どんなに理不尽な仕打ちを受けてきても気持ちを抑えてきた。
でも、この時ばかりは感情を抑える事が出来なかった。
僕自身も気が動転していたんだと思うが、髪の毛を掴んで叫んでいた。
そして、これからはあまり覚えていないのだが、彼が髪の毛を掴んだ直後に殴りかかってきた。
その一発のフックを僕は思いっきり食らってしまった。
この一発で僕は頭がクラクラした。軽い脳震盪を起こしてしまったのだ。今でも目の前がフラフラしたのを覚えている。
ただ意識もあったので僕も怒りが収まらず、彼の顔面を殴り返した。
髪の毛を掴んだ状態で思いっきり彼の頬を右手で殴った。
それから、彼も憤慨し、殴り合いになった。
数十秒だろうか。最終的に僕が抑え込まれて防戦一方の形となってしまった。
僕は殴られ続けた。
最終的に周りにいたタイ人に抑え込まれる形で終了となった。
この時に、やっと攻撃が終わった、助かったと率直に思った。
殴られ続けていた時は痛みは感じなかったが、抑え込まれて体の節々が痛いことが分かった。
そんなことを思いながら、僕は膝をついて、自分の状況を確認した。
僕は鼻血を出してしまっていることがわかり、口の中も切れているようだった。
殴り返したときだったのか、手の甲が痛いことも実感した。おそらく右手で殴ってしまったときに負傷したんだと思う。
彼に殴られたところよりも自分が彼に手を出した時に自分自身のこぶしが負傷していたことが情けなかった。
そして、エンジニアの彼は強いなとも感心してしまった。
なんであんなパンチとかフック出せるのかってくらい慣れた感じだった。
昨日もどっかで誰かと殴り合いの喧嘩してたんじゃないのかってくらい喧嘩慣れしてる感じだった。
自分の状況を確認したのち、周りを見渡してみた。すると、今も人だかりがあることが分かった。
20人くらいはいたと思う。
野次馬の中には数人笑っているタイ人もいることも見て取れた。
確かに面白い光景だったのかもしれない。よくわからない二人が殴りあっていたのだから、笑われても仕方ないかもしれない。でも、これを見たとき残念だったと強く覚えている。
それから数分後冷静さを取り戻し、僕はこの状況を会社の上司に電話で報告しなければならないと思った。
本来ならば事故を起こした時点で報告するべきだが、状況が状況だったので報告することが出来なかった。
会社の上司に連絡し、事故の状況だけを説明した。
大丈夫かとだけ質問され、被害者も問題ないことも説明した。
警察、保険屋を呼んで処理しろとのことだった。会社からの指示は至って淡白だった。
すぐにエンジニアの彼に警察と保険屋に連絡するように話をした。
気まずい感じだったが彼も冷静さを取り戻しているようだった。
そして、それから10分後ほどに警察がまず先に現場へと到着した。
警察はまず僕に対して大丈夫かと声をかけてきた。僕は大丈夫だと答えた。
そして、車やバイクの状況を確認した。車を路肩に寄せろと指示されたので車もエンジニアの彼が動かした。
警察が来てから数分後保険屋も現場に到着した。
原付バイクに乗ったとても保険屋には見えない男だったが、保険屋とのことだった。書類などをバックにぶら下げていたから保険屋なんだろうと分かった。
保険屋も到着してまず、僕の顔を気の毒そうに見ていた。
たぶん、警察も保険屋も僕が交通事故の被害者だと思ったに違いない。
僕は鼻血を出していて、白いシャツにも血が付いてしまっていた。
誰が見てもこの現場で僕が一番傷を負っている人間だった。被害者ではないが、殴られて一番負傷している人間になっていた。
警察と保険屋は事故を起こした僕ら当事者で数分の現場検証が行われ、少年とエンジニアの彼と30分ほど保険屋で話し合いとなり、その場を後にする事になった。
あとはすべて保険屋が処理するとのことだった。
そして、事故を起こしたエンジニアの彼も法律的に罰することはないようだった。また免許を持っていなかったバイクを運転していた少年も処罰されることはないとのことだった。
悲惨な事故ではあったが、少年に大きな後遺症が残るようなケガが無かった事が不幸中の幸いだった。
少年の母親と少年には謝罪を行い、いくらかのお金、慰謝料として少年の母親にエンジニアの彼と僕で支払って、エンジニアの彼と僕は乗ってきた車に乗り込み現場を後にした。。
事故を起こしてしまったこと、非常にショッキングな出来事とはこのことだった。
今もあの時の事故の衝撃音は耳に残ってしまっている。
そして、エンジニアの彼と喧嘩してしまったこともショッキングな出来事だった。これに関していうと、僕が冷静さを失ってしまったがゆえに起こしてしまったことだと言える。
タイで働く、生活する、旅行する人に伝えたい事
僕は人一倍トラブルに巻き込まれやすい環境を今まで生きてきた。
東京のクラブではゴチャマンしよう仲間を呼べと言われて喧嘩を売られた。
複数人でゴチャゴチャしながらタイマン張れということだ。
僕が気に食わなかったのか、薬を使っていておかしくなっていたかのどちらかだろうが、何もしていないのに喧嘩を売られた。
そんな挑発にも僕は乗らなかった。
サーフィンをしている最中にも言いがかりをつけられたことは何度もある。
宮崎のあるポイントでは海に入ってもいないのに僕の車のナンバープレートを見て、いちゃもんをつけてきた。
中国人の友人をサーフィンに連れて行った伊豆ではローカルに喧嘩を売られた。
僕の学生時代の中国人の友人たちは東北地方から来た北朝鮮に近いエリアの出身だった。
そんな彼らに海、サーフィンを教えたくて、泊まりで数人を連れて伊豆へ行った。
伊豆のあるサーフポイントで海に入るための準備をしているときにウエットスーツの着方が分からず、逆に着ていた中国人を見てローカルのサーファーが大声でこちらに罵声を浴びせ、馬鹿にされた。
彼らが中国語を使っているところから、中国人と分かり、馬鹿だな、帰れのようなことを罵声で浴びせられた。
腹が立ったが、相手にしなかった。僕はそんな挑発にも乗らなかった。
なぜなら、挑発に乗ったら差別をする人と同じ土俵に立ってしまうからだ。
海外旅行に行ったって何もしていないのにチャイニーズと罵声を浴びせられたこともある。
これはヨーロッパでの話だ。
それ以外にも理不尽な言いがかりをつけられたことは今までに何度もある。
今までに海のトラブル、サーファー同士のいざこざ、クラブでのトラブル、海外旅行でのトラブルいろいろあった。
そして、そんな環境で生きてきた今まで数多くのトラブルを自分なりに回避してきたつもりだった。
トラブルに遭いやすい状況がゆえに、回避する能力を身に着けてきていたつもりだったのだ。
しかし、今回は目の前で交通事故が起こり、自分を見失い、手を出してしまった。
そして、体を負傷するほどボコボコにされてしまった。
海外生活とはトラブルが起きやすい。
そして、また解決するのも日本にいる時以上に難しい。
今回事故を起こしてしまったが、被害者は幸いにも無傷で僕は無傷ではなかったが、どちらお幸いにも命に別状はなかった。
しかし、最悪の事故というのはあり得る。
僕自身がスクンビットでバイクタクシーが轢かれて即死している姿を見たことがある。
顔が真っ二つに割れていた。
車とバイクの事故だった。それ以外にも何度も事故を目撃している。
そして、喧嘩も事故ほどではないにしろ何度か見かけてきた。
相手がもし、本当におかしなやつだったら殺されていても何ら不思議はないだろう。
海外生活をするうえでいつ何時トラブルに巻き込まれるかわからないというのが今回の教訓だった。
みなさんも僕のような日本人を反面教師として改めて身を引き締めて海外生活をして貰えれば嬉しく思います。
今回の事件からわかったタイで生活する上で注意したい3つのこと
僕が今回分かった事は3つある。それを最後にまとめておきたい。
1つ目の教訓:タイの交通事情は良くない。非常に危ないという事。
まず、今回事故を起こしてしまった彼は運転は下手ではない。
何年も運転しているし、ペーパードライバーでもない。
まさか、そんな彼にこんな事故を起こしてしまうなんてと思った。
どんなに注意していてもタイでは事故が起こる可能性が日本よりも高いと思う。
今回の少年のように無免許で運転している人も多いし、街灯もない暗い道でもランプも付けないで走行している車、バイクも多く走っている。また運転マナーも非常にタイは悪い。世界的には良いほうなのかもしれないが、日本と比べると非常に悪い。
もしあなたもタイで働いたり、車を運転したり、ドライバーに車を運転して貰うことがあるならば気を付けてもらいたい。
タイの交通事情は非常に悪い。
運転しなかったり、車に乗車しないにしても歩行中に事故に巻き込まれてしまう事もあるだろう。
一歩道路に出たら、危険があるということを一人でも多くの日本人に知っておいてもらいたい。
2つ目の教訓:タンブン(善行)をしても、悪い事は起きてしまうという事。
次にタンブンなんかしてもあまり意味もないということ。
意味があるのかもしれない。
良い事をすれば自分の気分が良くなる。
そして、良い事をされた人も良い気持ちになる。
しかし、本人自身がしっかりしないと悪い事は起こる。
全ては自分次第だということ。
お坊さんを助けた翌日に事故を起こしてしまった。善い行いをしたはずなのに、悪いことがすぐに起こってしまったと感じた。
どんなに善い行いをしても、お金を払っても意味がないということが今回改めてハッキリした。
3つ目の教訓:冗談はよし子ちゃんという事。
三つめ、何だこれ?と思った人いるかもしれません
これは、僕のおばあちゃんが今でもよく言う言葉なのです。
僕が小さい時からずっと言われ続けています。
『冗談はよし子ちゃん』って僕にずっと幼い時から言ってました。
冗談はよし子ちゃんなんです。
この言葉、全ての事に当てはまるんです。
冗談はよし子ちゃんでも冗談はよし子さんでも冗談はよしおくんでも何でもいいんです。
冗談はほどほどにしておけという事です。
冗談でも手を出したら、駄目だよという事です。
それが例え冗談だとしても取り返しのつかない事になります。
今回の僕は冗談半分ではないにしても、自分を見失い、手を出してしまいました。
冗談はよしなさいということですね。
おばあちゃんありがとう。
これからももっともっと長生きしてねって今強く思います。
最後に
この事故を起こした翌日、僕は会社を休んだ。
病院に行って自分の体を検査するためだった。
幸いにも僕も体に異常はなかった。
手の痛さがあったが、骨が折れていたり、ひびが入っているわけでもなく、はく離骨折すらでもなかった。
そして、今回喧嘩してしまったエンジニアの彼とは今も二人で共に働き、営業に行く。
今では仲直りもしたし、事故を起こしてしまった車も元通りになり、この時の話も今では話すことが出来る。
とても不思議な出来事であったとも感じている。
なぜなら、前日に僕たち二人はお坊さんを助けて徳を積んだにも関わらず事故を起こしてしまったからだ。
数奇な運命と感じている。
お坊さんを助けたのが意味なかったのではないか?と彼とも話をした。
彼の回答は少年も無傷であり、彼に殴られた僕も無傷だったのはお坊さんを助けたおかげだったとのことだった。
お坊さんを助けていなかったら、もっと一大事になっていただろうということだった。
僕はこれを聞いてタイ人の信仰心は凄いなと思った。
僕とはまるで考え方が違った。
僕は三日たたなかったがお坊さんから貰ったネックレスは直ぐに外したし、そもそも、事故を回避してくれと思っていた。
今回は非常にショッキングな内容であったかもしれない。
僕自身も事故当時は動揺してしまった。
でも、何もなくてよかった。本当に強くそう思う。
確かにこれはお坊さんを助けたからだったのかもしれない。
たぶんそうなんだろうと言い聞かせている。
これからも、日々、誰かを助けて、徳を積んで人の役に少しでも立つように全うに生きていきたい。