R.I.P 山本KID徳郁 最高の日本人総合格闘家
ブログをしばらく更新していなかった。
色々と忙しく、ブログに時間を費やすことが出来なかった。
出来れば更新し続けていきたかったのだけれど、全くと言っていいほど時間がなく、あれだけ精いっぱい頑張ったブログでも放置せざるを得ない状況に陥っていた。
もうブログは放置で今やらなければならないことに専念し、いつかブログごと全て削除しようか位に考えていた。
今もこの状況は変わらず、時間がない。
全く状況に変わりはないのだけれど、今回どうしても書いておきたいと思う出来事が起こった。
だから、今回本当に久しぶりにブログを更新することにした。
正直ブログの書き方も忘れてしまっていて、どうやって書いたらいいのか、どうやって伝えれば良いのか、アップロードの方法すらも忘れてしまっている状態だった。
多分これから書いていく文章もおかしいかもしれない。
上手く書くことが出来ず、上手く伝わらないかもしれない。
そもそも元々がおかしい文章かもしれないが、さらにおかしい文章となっているかもしれない。
でも、今の心境を書き留めておくという意味で駄文かもしれないが、書いていきたい。
どうしても書きたいから書く。
今回僕がブログを更新したのは、おそらくみんなもご存じの出来事についてだ。
日本中でも先日ショッキングなニュースとしてトップニュースとして報道されたから知っている人も多いだろう。
それが、総合格闘家の山本KID徳郁選手が死去したというニュースだ。
男から見てカッコ良かった山本KID徳郁
先日2018年9月18日に逝去された山本KID徳郁選手は総合格闘家の選手。
現役を引退することなく、生涯格闘家として人生を全うした選手ともいえる。
つい先日、1か月ほど前にガン治療中であることをインスタグラムで公表したばかりだった。この公表からわずか一か月ほどでの訃報となってしまった。
僕にとってこの山本KID徳郁選手という人物はヒーローに近い存在だった。
僕だけでなく、僕の周りの友人らも山本KID徳郁選手が大好きだった。
多分多くの人にとっても同じようなヒーロー的存在だったと思う。
特に男性から人気のあった選手だったように感じる。
女性よりも男性からもカッコいいと思われるような、総合格闘家選手である。
僕がなぜKIDを好きになったかというとやはり彼の独特の枠にとらわれないファイトスタイルだったと思う。
まずは、山本KID徳郁選手の経歴を簡単におさらいしてみたい
神の子KIDの経歴
ちょっと、話が脱線するが、ここからは山本KID徳郁選手のことをKIDという書き方で進めさせて頂く。
というのも、僕自身がいつもKIDのことをKIDと言っていたからで、山本KID徳郁選手とか書くとどうしても違和感があるからだ。
失礼かもしれないが、ご了承頂きたい。
さて、話を戻したい。
KIDの経歴だけれど、ミュンヘンオリンピック日本代表だった山本郁榮を父に持ち、KIDの姉、妹もレスリング世界選手権を制覇した格闘サラブレッド一家の長男として1977年に生まれた。
実は、僕はKIDの父親である山本郁榮をよくパチンコ屋で見かけたことがあった。
僕はスロット派だったけれど、パチンコをしている姿を本当によく見かけた。かなりよく見かけたので、かなりのパチンコ好きだったと思う。
KIDが好きだったから声をかけようかとも何度も思ったのを今も記憶している。
そんな格闘一家に生まれたKIDは、幼少期からレスリングを始めて格闘家としての人生を進んでいく。
中学校はなんと進学校として有名なあの桐蔭中学に入学している。
桐蔭中学といえば、関東でも指折りの進学校で、今の姿からは想像付かないかもしれない。
たぶん、頭が良かったのだろう。
子供のころからレスリングをしながら、進学校に通いオリンピックを目指していく。
大学までレスリング一本で五輪代表を目指していたけれど、日本代表が絶望的となり、と総合格闘技へ活動を移していく。
総合格闘技の修斗の世界では、エンセン井上の下で格闘家人生を歩んでいくことになる。
KIDといえば、体中に入れている入れ墨が話題になることもあるが、おそらくこれはエンセンからの影響があるのだと思う。
エンセンも入れ墨が体中に入っていて、背中には和彫りスタイルの刺青の中に大和魂という文字も刻まれている。
KIDの腕にも同じく大和魂と刻まれていた。多分エンセンの影響だと思う。
この動画はまだタップをしていないエンセンに対してレフェリーがストップをかけた試合。
KIDがリングに上がってBack to fight!!とレフェリーに詰め寄るシーン。これも結構印象に残っている。おそらくエンセンに相当師事していたのだと思う。
それが、タトゥーにも表れているのだろう。
エンセンに師事し、修斗、K1、UFCと総合の世界へと足を進めていく。
僕自身がKIDを初めて目にしたのはK1初出場となった村浜戦だ。おそらく、みんなも同じだろう。
KIDが一躍有名になった試合だ。
この大会で相手選手だった村浜選手は優勝候補と言われていて、非常に期待されていたの。
一方のKIDは全くの無名選手で、どうせ村浜に負けるんだろうな位に思っていたのを記憶している。
でも、その試合でKIDは何とも言えない独特のファイトスタイルで村浜を圧倒してしまう。
今でも覚えているのはとにかく凄い目力だったこと。
人間というよりは動物に近い獲物を狙うような目つきだったのを強く記憶している。
どのようにして戦ったかなどは、はっきり覚えていないけれど、目力が凄かったことだけは強烈に覚えている。
この試合から、僕のKID好きが始まった。
なぜKIDが好きだったか?
金髪の坊主にタトゥーだらけでムキムキの肉体は、中学生だった僕に衝撃を与えた。
村浜戦では、優勝候補だった村浜のヒール役のような存在だったけど、非常にかっこよく映った。
不良に憧れる年ごろだったので、尚更カッコよく映ったのかもしれない。
村浜戦でのK1デビュー翌年に発売されたDVD付のKIDの写真集も買っていたし、当時はKIDのことについて調べまくっていた。
村浜戦デビュー後は全てのKID戦を見ていたし、テレビ番組や雑誌に出てくるのも良くチェックした。
当時、KIDが付き合っていたのはMARIAというモデルで観客席では必ずと言っていいほどKIDの応援をしにきていた。
めちゃくちゃ美人なモデルで中学生当時の僕にとって相当羨ましかったのを覚えている。
ハマーにも乗っていたり、KIDみたいにいい女連れていけたら最高だなみたいな感じで思っていた。
ファッションセンスもカッコよく、入場曲で使用していた音楽にもセンスを感じた。
KIDが使用していた入場曲からレゲエやレゲトンにもハマった。
T.O.Kの「I believe」は今聞いても最高の曲だと思う。
とにかく男が憧れる要素がいっぱいだったわけだけど、僕がなぜKIDが好きだったのか一番の理由はこんなところではない。
でも、こういった外見や良い女と付き合ったり、良い車に乗っている格闘家は他にもいっぱいいる。
じゃあ、なぜ僕はKIDのことが好きだったのかは他に理由があった。
KIDは最強の格闘家ではなかったが、僕にとっては最高の格闘家だった。
それは、やっぱりどんなスタイルでも戦うことだった。
魔裟斗と戦った時もK-1ルールで参戦したことがめちゃくちゃカッコよかった。
K-1ルールでやるということは、完全に相手の土俵で戦うことになることを意味する。
僕は魔裟斗も大好きだったけど、KIDと戦ってからはKIDの方が好きだった。
もし、仮に逆の立場だったら魔裟斗は自分の土俵ではないK1ルールで戦っただろうか?
負ける可能性が高いルールで戦うことにはならなかったのではないかと思う。
完全に相手の土俵で戦い、しかもノックアウトまで奪ってしまった。
この試合は今でも鮮明に覚えているし、めちゃくちゃ感動したのを記憶している。
どんなに不利な条件でも、たとえ倒れたとしても、チャレンジすることを教えてくれた。
最後に
正直いまでもKIDが亡くなってしまったのが信じられない。
あんだけ強かった選手がこんなにも早く亡くなってしまうなんて。
記録よりも記憶に残る選手だとも思う。
今回KIDが突然の死を迎えて教えてくれたことは、
人生太く生きるということだった。
KIDは41歳で逝去と一般的に見たら、普通の人の人生の半分しか生きていないかもしれない。
でも、他の長く生きた人よりも非常に濃い人生を生きたと思うし、人々に感動や希望を与えたと思う。
僕もいつ死ぬか分からないが、いつ死んでもいいようにKIDのように太く生きていきたい。
Rest in Peace 山本KID徳郁